勝手に灘五郷アースダイバー vol.02

【生田神社】酒、醸すのも多生の縁

文:大森ちはる 写真:岡田敏和

いきなりですが、以下、灘五郷酒造組合ホームページより抜粋。
『灘五郷を含む兵庫県は採取生産量で全国一位を誇ります。県内でもナンバーワンの生産量を誇る灘五郷は、酒造りに適した風土に恵まれ、水・米・技に優れた「日本一の酒どころ」です。兵庫県神戸市灘区、東灘区、芦屋市、西宮市に位置する「灘五郷」は、西郷・御影郷・魚崎郷・西宮郷・今津郷の総称です』
そんな灘五郷をふらふらと歩き回り、人から人、場所から場所へ。たまには時間軸も超えて、点と点を勝手に結び想像を膨らませる。それが「勝手に灘五郷アースダイバー」です。

「あなたらにもわかるように、ちょっと」。名誉宮司の特別講義。

神功皇后の御外征以来、毎年三韓より施設が使節しております。その使者が入朝及び帰国するに当り朝廷では敏馬浦(脇浜の沖)で新羅から来朝した賓客に生田神社で醸した新酒を振舞って慰労の宴を催しこれ等に賜るのが例でありました。(中略)これが灘五郷酒造の始めと伝えられておりまして、酒造王国の発祥地は実は当生田神社であると言われております。

神戸の繁華街・三宮駅から歩いて数分。東急ハンズの脇を、そのロゴマークの人差し指が導く方へ進めば、もう生田神社だ。鳥居をくぐり、ほとんどの参拝客がまっすぐ本殿に向かう流れを右手90度に外れると、この石碑に出会う。「灘五郷酒造の発祥地」。後ろには、後見人かのように酒造の神様・松尾神社が祀られている。

発祥地と言われても、いまいちピンとこない。生田神社が位置するのは、現代の灘五郷の最西・西郷よりも阪神電車4駅ぶん西側だ。Wikipediaの灘五郷のページにも、「生田神社」の文字は出てこない。いったい、どんなつながりなのだろう。

そんな疑問をホームページから「お問い合わせ」したところ、生田神社の名誉宮司・加藤隆久さんが直々に教えてくださるとお返事が。伺うと、一見して高級とわかるハリのきいた白装束を纏った加藤さんが迎えてくださった。部屋に入った私たちに「どうぞ」と一瞥して筆ペンで書きものを進める凛とした佇まいに一瞬気圧されたが、その書きものこそ、神話や歴史に疎い私たちのために用意してくださっていたメモだった。「長い歴史ですから、みなさんが記事をつくるときに困らんように、ちょっと講義をしましょうかね。私の言うことばも馴染みがないでしょう。書いたものを差し上げます」。

文脈はないが、縁がある。

石碑にある「延喜式の玄蕃寮」とは、平安中期に編纂された法令集・延喜式(えんぎしき)の玄蕃寮(げんばりょう)に記載されている規定のことです。玄蕃寮の大部分は仏教関係の規定で占められていた中で、最後の条にある外国使臣に関しての項目だけは、神道的な行事としてこう定められていました。「およそ新羅の客入朝せば、神酒を給え。その醸酒の料の稲は、…(中略)…大和国の片岡の一社、摂津国の廣田・生田・長田の三社、各五十束、合せて二百束を生田社へ送れ。いずれも神部に造らせ、中臣一人を派遣して酒使とし、生田社にて醸した酒は、敏馬崎で給仕せよ」

現在の西宮市に位置する廣田神社は若干離れているとして、平安時代、このあたりには生田・長田・敏馬(みぬめ)の3社しかなかったそうだ。現代の感覚からすると敏馬神社よりも「ザ・神戸の神社」のイメージが強い「楠公さん」(湊川神社)は、明治5年創建という。たしかに、湊川神社に祀られている楠木正成って鎌倉時代のひとだものね。平安中期から鎌倉末期って、ざっと400年の時が流れている。ひと口に「昔」と言っても、それはかたまりでドンと存在するのではなく、薄い層がぶわーっと重なってできたミルフィーユなのだ。加藤さんのお話は、すべての光景をご自身の目に収めてこられたかのように、軽々と層を行き来する。「日本史で習ったな」なんて思い出しながら聴いていると、うっかりミルフィーユに身を挟まれて、時空の感覚がぐにゃぐにゃと揺らいでいく。

新羅の客人を神酒で歓待したのは、私は2つの意味があったと考えています。ひとつは、遠路はるばる来朝したことに対する慰労。もうひとつは、検疫です。当時は朝廷に向かうには、浪速津(大阪難波)から陸路で進み、その手前の敏馬崎(神戸市灘区)の港で一泊するのが常でした。蕃客——来朝している外国人——に神聖な酒と肴を給うことにより、ケガレを祓っていたのです。蕃客の一行は、停泊の際に生田神社にも参拝し、神酒饗応の儀式を受けるのを恒例としていたともいわれています。荘厳華麗なこの儀式は、親善外交として機能していました。

そもそも敏馬崎は、新羅から蕃客を迎えるようになった謂れである、神功皇后の三韓征討と縁深い場所らしい。延喜式の編纂よりずっと以前、日本書紀の時代の話。vol.01で訪れた敏馬神社で宮司・花木さんに教えてもらったところによると、「(三韓征討の大勝利から)ご帰還の際、この地で船が動かなくなり、再び占い問うと『神の御心なり』と……」なんだとか。歴史的な経緯を踏まえつつ、一方で目の前の相手を畏れ、敬う。インテリジェンス。目配り。たおやか。そんな言葉が渦巻く政策だと思う。

酒造において、近隣の廣田・生田・長田に加えて、なぜ遠方の大和国(奈良県)の片岡神社が関係しているのか。不思議に思われるでしょう? それは、中臣一人を派遣していたのが片岡神社だったからです。片岡神社は食物に関わりのある祭神・豊受大神(とようけのおおかみ)を奉斎する社でした。中臣氏はそこで祭祀にたずさわりながら、同時に神酒を醸造する酒部を率いる職務を世襲した氏だったといわれています。新羅の客人が来日したときに国賓として給うお酒を、生田神社の神部——かんべ:神職と付近の住民——が生田の境内でつくる。そのお酒をうまく醸せるようにと、中臣氏を招いたわけです。

なんとも、ひとの営みを窺わせる条文ではないか。きっと現場はプロジェクトXのようだっただろう。「玄蕃寮(官司:役人)より、新羅からの一行をもてなす神酒を生田で醸せとの話が」「なぬッ! そのようなスキルもノウハウも、ここにはないぞ」「さすれば、技術提供を頼みましょう」「当てはあるのか?」「中臣氏が力になってくれるかもしれません。掛け合ってみます!」(というのは、すべて私の空想です)。

ここで話は、灘五郷が発展した江戸時代にジャンプする。例えば、DEMOくらしの共同発行人・白鶴酒造が興ったのは1743(享保3)年。延喜式から800年後の世界だ。同じ神戸の地で、生田神社と灘五郷にはどんな由緒があるのだろうか。ワクワク。

直接的な由緒は、じつは文献などにも残っていません。ただ、いまお話したように、平安時代当時、生田神社の神職と付近の住民が酒造に熟達していたことが察せられ、けだし、灘の銘酒の起源と何らかの関わりがあるでしょう。生田神社では、ここでお酒をつくっていたから酒造の神様を招こうとなって、いつの時代か、末社として松尾さんを祀るようになりました。

……え? あ。はい。
プロジェクトX続きに歴史のロマンを期待していただけに、そこはかとなく、拍子抜け。

いや、でも、待てよ。
辞書をひくと、発祥地は「ある物事が初めて起こった土地」とある。なるほど、歴史は「C + O2 = CO2」の化学反応式のような、後追い可能な筋立てだけで構成されているわけではない。だとすれば、生田神社と灘五郷が、800年の時を超えて、同じ神戸という場所でお酒を醸している。そのこと自体を寿ぐのも、歴史のひとつの味わいかただ。袖振り合うも多生の縁……は仏教用語だけれど、そういうことなのかもしれない。

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「栄え水」転じて「酒」となす。古代の名付けの精神性。