たたみから考えてみたら、心ざわつく一日だった。

文:やすかわのりこ 写真:大森ちはる

2020年1月17日。阪神淡路大震災から25年という節目をむかえ、HAT神戸・なぎさ公園で震災から考える『2020ひょうご安全の日のつどい』が開催された。平日にもかかわらず学生の姿が多い。兵庫高校の生徒さん曰く、メモリアルウォークで長田から会場まで歩いてきたそうだ。新しい世代に受け継ごうという雰囲気を強く感じる。交流広場には、企業・行政・団体・学校などが災害時に対する備えや、支援活動を知ってもらうためのブースが連なる。そのうちの一つに、災害時に全国にいるプロジェクト参加畳店(メンバー)から避難所に新しい畳を無料で届ける『5日で5000枚の約束。』プロジェクトが参加していると聞きつけ、本日参上。この活動を災害時にスムーズにするため165の自治体と協定締結し(2019年4月現在)、地域の畳店が平常時より積極的に動いている。この活動のポイントは『送る』がスタートではない。まず、被災地にいるメンバーが全国のメンバーに『求める』それを『受け取る=地域を守る』というものだ。お昼をとっくに過ぎているのに、まだ昼食をとっていないプロジェクト発起人の前田さんに、代りに店番をするから、これは絶対に伝えて欲しい事は何かと尋ねた。

何かが起こったから、ただ送るのではなく、地元を良く知った自分たち(畳店として)で地元を守る。例えば、神戸で何か起きたら、僕たちが避難所を回って、その場所に必要な畳の枚数を全国の畳店のメンバーに求める。メンバー達から届いた畳を僕たちが神戸市と一緒に受け取る活動。そういう時に、地元の仲間を作っておけば活動がスムーズにできる」。わかるようでわかってない……ワタシ、伝書鳩で終わるのか?

顔を見て、言って、聞いて、知った。

さてさて、伝書鳩の店番開始。ブースに誰かがやってくると体が勝手に動き出す。不完全な理解だけど、教えてもらった大事な事はちゃんと伝えたい。おかしなこと言ってるのはわかってる。でも、心がそうしたいって言ってるから、『見ざる、聞かざる、言わざる』の反対を(本来の意味とは違うけど)とにかくやり続けてみたのです。


ミツメテいてね
(左から)マユミさん・マコトさん

マユミさん: なぜここに畳があるのかと思いました。畳を届ける活動ってどういうもの? って。確かに避難所になる体育館など本当に冷たい床の上に、置いてある毛布を敷き詰めるという空間でしかないので、畳があれば…。いろんな方が、いろんな所から避難されていると思うので、家と同じように感じられる空間や、畳の独特の香りが、旅館のほっと落ち着く様な。そういうものがあると、そこでの生活が過ごしやすくなるのかなと。いろいろな組織の方々が活動される中で、すごく新しく見えたので興味があります。

現在、横浜にお住まいのお二人。普段は医療従事者として支援チームの事務局で働くマユミさんと、夫のマコトさんも医療従事者。神戸生まれの彼女は、震災でご自身も被災者の一人になった。家は半壊、ブルーシートを張り、なんとか過ごしていたという。

マユミさん: 避難所へ行くのも大変な状況でした。そこへ行っても決していい生活ではない。ものすごく雑多な状況の中なら、家族もいるし。お爺ちゃんとお婆ちゃんも一緒に住んでいたので、なかなか、ねえ。

当時の戸惑いや迷いが言葉の語尾に現れているように思えた。避難所では、集まった人たちがお互いのプライベートを尊重しつつ、周囲に気兼ねなく過ごす事が簡単ではないと想像できる。不安や疲労、一番休みたいときにそれができない環境に自分がいつまで耐えられるかと訊かれても、きっと答えられない。

マユミさん: だから、畳のコレは、ひろがればいいなって。

東北大震災が起こった時、マユミさんは福島で支援活動に行った。取材に一生懸命に応える彼女をご主人が見守っている。そんな姿をずっと見つめ続けて欲しいなって思う私です。


シルとシラナイの距離を
タケシさん

震災があった25年前、タケシさんは三田市にいた。この日は、長田で行われた震災に遭われた方々による、経験から学ぶ勉強会に参加。取材後、メモリアルウォークに参加するという。

タケシさん: 自分の目に実際に触れたものしかわからないので、テレビで困っている人がいても、なかなか踏み出せないところはあります。だけど、25年前の経験があって、私のできることがしたい。兵庫県で起こった出来事も東北の人に伝えたいと思って、よく参加しているのが『東北復興サイクリングイベント(ツール・ド・東北)』。石巻から気仙沼まで往復200キロくらいの普通の道を走ります。幹線道路などは舗装されているけど、生活道路はガタガタで「自転車で走りづらいな」っていうのは、実際に行って走ってみないと分からない。福島の子どもたちの保養キャンプにも参加しています。福島の子どもたちが青空の下で遊ぶのは今も難しい状況にあるので、兵庫県に連れて来て「みんな、遊べ!走り回れ!」って。スーパーボランティアのような被災地の直接的な支援活動ではないけれど、自分の好きな事を活かせる、寄り添いたいと思う活動をしています。

前段で話してくれたマユミさんとタケシさんは、報道される情報の少なさから、震災への関心が薄れているのでは?と感じているようだ。違う地域で暮らしている震災経験者が同じ不安を持っている。世の中に知らされていない動きは、掘ればまだまだ出てくるのかも。

タケシさん: 道路はガタガタのままとは言え、「今は観光できるし、新しい名物ができたよ」、「津波で流されちゃった加工所も、ワイナリーを内陸に移転して凄い賞を取ったよ」とか。そういうことを通じて、お互いの地域を知って。例えば、「ここに畳があれば、めっちゃええねんで」って。知ると知らないでは全然違うので、そこに繋がればいいなと思うんです。


環境防災課という、ミチ。
(左から)ヒナタさん・ミワさん

兵庫県立舞子高校に環境防災科が実質的にスタートしたのは2002年4月。彼女たちはその学科に通う一年生だ。ヒナタさんは、看護師。ミワさんは、警察官。それぞれが近い将来の目標に向け学生生活を送っている。なぜ、看護師や警察官になる前にこの道を選んだのか、自分には全くない発想、初めて出会ったこの考えに驚きと興味が入り混じる。何かが起こった時に防災を学んだ看護師と警察官がその場面にいるって、すごく有難いことだと思った。「夢があって入学する人が多いです。消防士とか国家公務員とか」と二人は話す。入学してから約9ヶ月、何か変わったところはありますか?という質問に声をそろえて「防災意識」という。

ヒナタさん: 学ぶにつれていろんな防災知識が入るから「これはちゃんとやっておいた方が良いな」って。非常用持ち出しバックってありますけど、中学生の頃もその話はよくされました。でも、必要性が分からなくて全く用意してなかったんです。今は、もしもの時のために用意しておこうと。他にもいろいろな考え方ができるようになりました。

『実際に備える』に至らない実情を改善するための取り組みが、授業に反映されているのかもしれないけど、それだけで自分事に昇華できるのか?

ミワさん: 海上自衛隊・警察や消防庁などから外部講師のような形で毎週のように学校に来てくれます。私は、もともと体育の教師になりたかったんです。でも、実際に警察官の方が講師で来られた時に、私もこんな人になりたいって思って。そうすると、その方の実体験を自分事のようにして聞くことができました。

授業で得た知識に加えて、目の前にいる人の佇まいを見ながら、その方の実体験を聞く。その人から出てくる言葉が現実的に体感として伝わるのかもしれない。別れ際に、これからの私達をよろしくお願いしますと言ったけど、本当は何かが起きた時、彼女たちが速やかに活動できるように、私一人の備えは小さくても、何もしないよりましなはず。それが、高齢者へと向かって行く私が、将来を担っていく若者達への贈り物になる気がする。

自分たちのできることをできるところまで、という約束。

店番中『5日で5000枚の約束。』プロジェクトの説明をしながら疑問が湧いた。避難所で受け取った畳の行く末だ。被災地からの中継で畳は水を含むと重くて持ち上げるのが大変とテレビで何度か観た。濡れていない畳でも、必要でなくなれば…。悪役に転じてしまうようで少し怖い気がした。後日、発起人の前田さんに尋ねてみた。

前田さん: 自分たちでできるところまでやる。それ以上は自治体に協力してもらう。畳をお届けする前、防災協定締結時には、『処分は自治体にて』を打ち合わせ・明記していただいています。この過程こそが重要なポイントです。『送って終わり=送りつける』にしないために。

避難所が閉鎖されるときには畳の状況を畳屋の見地からみて処分・再利用可能のアドバイスすることを、全ての避難所でできるよう目指している。例えば、センター街のお祭りに敷いてもらうなどの再利用を実際にされているところが熊本でもあったそう。また、岡山県倉敷市で開催される『復興神楽』で使用する畳の相談を受け、避難所の閉鎖で使われなくなった畳の再利用を提案し実施されている。

前田さん:やりたい事をやって終わり、送って終わりではなく『最初から最後まで』を目指しています。『発災が最初ではなくて平常時から始まっている』、だから、非常時だけ活動するのではなく、平常時から災害時の活動をスムーズにするため、畳が届くことを知っていたたくための防災訓練やイベントに参加し、地域の皆さまとの連携を大切にしているのです。世の中のみんなが、学生も社会人も役所も企業も、それぞれが自分の得意分野で手の届く範囲のこと、手を伸ばしたら、大きな手で手当てできるような気がしています。大したことをやっているわけじゃないし、大きなこともできないけど、これくらいにシンプルなことを地元の畳店として模索していきたいと思っています。

かもしれない、けど。

実を言うと、今回は取材するとも記事にするとも決めてないかった。店番をしたのも偶然だった。でも人と関わると心がざわつく。「今日、来てよかったです」と取材を受けてくれたタケシさんがポツリと言った。続けて、「ネットで調べちゃうと逆に入りすぎるから判断力を経験していかんと。経験談って1000人いれば1000通りあるから、自分が良かれと思ってやった事が相手にとってどうかも、基本的な事はあるだろうけど、最後のやり取りは会ってみないとわからないって。自分の良いと思う事が喜こばれたら嬉しいし、違っていたら他の方法を考えられる」。

震災当時の私は二十歳を超えていた。神戸市西区にある入院中の祖母のボロ家に一人で住んでいた。被害の少ない地域だったけど、余震が来るたび壁に入ったひびを見ながら震える。田舎で汲み取り式だったからトイレに困ることはなかったが、井戸から引いた蛇口から数日間土色の水が出た、石が混じった風呂に入る。震災の数日後、車でバンドメンバーと三宮に入った。まだ何の規制もされていなかった。誰もいない、その瞬間に見ていた景色は全て嘘みたい。練習の予約を入れていたスタジオは閉まっていた。もしかしたら営業しているかもっていう、テレビ画面で観た現実を信じ切れてない自分がいたと思う。そんな光景を目の当たりにした私の防災意識は、たぶん1センチに満たないかもしれない。じゃあ、こんな私ができることって?そんな心の動きでこの記事を書きました。

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