文:大森ちはる
「西の魔女」とは、主人公の多感な中学生・まいのおばあちゃん。若いころに英語教師として日本に赴任してきたイギリス人で、山の中の「ミニで入るのが精一杯の小道」の奥にある英国アンティークの家に、夫亡きあとはひとりで暮らしている。
家を取り囲むイングリッシュガーデン。来客のもてなしは自家製ハーブティー。主食はパン。まいがひと月あまりの滞在中に寝室に使ったのは、三角屋根の傾斜があらわになった屋根裏部屋。彼女はそのひと月で、父親が目を丸くするくらいに手早くベッドメイキングができるようになった。自由と規律の英国パブリックスクール的様相を帯びた、おばあちゃんとの規則正しい暮らし。
でも、おばあちゃんの個室だけは、「英国」ではなかった。和室。畳。布団。ならば、その奇異は印象深く残っていてもよさそうなのに、原作からずいぶんな時を隔てて映画で再びこの物語に触れたとき、ほかの設定や話の筋は「ああ、そうそう」と記憶が呼び起こされても、この情景だけは初見さながらに目をひいた。ナンデココダケ、畳ナンダロウ?
劇中、和室が映るのは2回。1度目は、まいが夜、昼間のショッキングなできごとに苛まれて「一緒に寝ていい?」と枕を抱えてやって来たシーン。2度目は、息を引き取ったおばあちゃんが横たわっているシーン。後者はクライマックスだし、前者だって、原作の文庫本をめくると、全192ページ中の10ページがさかれている。
物語の核が脈打つたいせつな場面でありながら、舞台背景の印象がゼロなのは、はてさて。原作を読み返して、なるほど合点がいった。この部屋が和室であることを示す描写が慎ましいのだ。「おばあちゃんの部屋は畳敷きで、布団を敷いて寝る。おばあちゃんは自分の布団の隣にまいの布団を敷いた」(1度目)、「おばあちゃんはきちんと布団に寝かされていた」(2度目)だけ。「英国」と和室、おばあちゃんと和室の関係性は一切語られない。まるで、作者がここが「英国」でないことを悟られたくないかのよう。
いや、ほんとうに、そうだったのかもしれない。だって、物語の構成上、ここが和室である必然性は見受けられない。おばあちゃんの家全部が「英国」の方が、世界観の統制がとれる。それでもなお、床を板張りでなく畳敷きに設定したのは、運営側(作者・映画制作陣)が、畳の上だからこそできた演出があるからなんじゃないだろうか。
実際、映画版を観て、どちらも和室だから際立つシーンだったように思う。不意に隣に寝床をこしらえるとか、ベッドだったら模様替えレベルの大移動だ。布団だから自在にできる。べつにシングルベッドで2人密着して眠るのもいいけれど、自由と規律を愛するおばあちゃんの気質には、似合わない。寝転がり、隣どうしで天井を見上げてするおしゃべりは、キャンプの夜のようにするりと本音が出る。これもダブルベッドでも演出可能だけども、日頃ひとりでダブルベッドで眠るラグジュアリーさは、おばあちゃんにはやっぱり似合わない。
息を引き取ったおばあちゃんに対面するシーンでは、横たわるおばあちゃん、布団の脇に膝をついて泣き崩れる5秒前のママ(りょうの強張った顔の気高さったらなかった)、部屋の入り口で立ちつくして傍観するまいの目線の高低差が、三者三様のいかようにも越えられない隔たりを物語っていた。絶望。膝をおりたたんだところで、生者は死者と同じ目線には降りられない。「生き方」は違っていても、最期に少しでも近くで母とまみえたいと願う娘心を、画面越しに受け取って、泣けた。
梨木香歩による日本の小説。1994年に単行本出版。主人公のまいが、自らを魔女と呼ぶおばあちゃんと過ごしていた頃を回想する形で物語は進む。
2008年6月に公開された実写映画は、「おばあちゃんの住む家」を忠実に再現するべく、山梨県の清里高原にセットが作られ、そこで撮影が行われた。セットは2008年5月から2009年はじめまで保存・公開される。現在は解体されている。
(Wikipediaより抜粋)