文:松本苑子
畳のことを書かなくちゃ
畳について文を書く。
何かしなきゃ、と思いつつも、なんせお題が畳。これはなかなか難しい。
この件に関してはスルーしようかと思っていたが、手を動かさなければ腐る気がするので
パッと頭に浮かんだことを書く。
おばあちゃん家の畳部屋の隅にある、違和感がある空間を思い出した。
それは、私がもの心ついた時からそこにあった。
ずっとある、今もある。
信仰へのうしろめたい気持ち
和の空間に洋がひっそりと存在感を出していて、いい具合に溶け込んでいる
…と言いたいがアンバランスさを隠しきれていないので、どこか可愛らしさを感じる一角。
うちの母の家系は先祖代々クリスチャンで
日曜日はミサへ行き、クリスマスの夜は教会に行くというわりとガッツリした信仰がある。
なので、この祭壇は先祖から受け継がれてきたであろう、大切なもののようだ。
少し他人事である理由は、毎週教会へ行くのは、中学生に入ってからやめたから。
ちょっとした反抗期もあると思うけれど、日曜日の朝10時〜11時に自転車で15分先の
教会に毎週通うのはめんどくさい、何より眠い。眠さが勝つ。
なので、年に一回のクリスマスのみ教会へ行っていたこともあり、
今の私自身、クリスチャンという自覚があまりないのも本音である。
そんな、これからも深く関わることのないはずであろう祭壇を通して
人生初めてアクションがあったので、畳のことではないけど書く。
自分時間が増えて見えた現実
祭壇に関してだが、おばあちゃんは毎日この前で祈っているらしい。
この前出くわした時は、両手を合わせて10秒ほど動かなかった。
過去数回、何を祈ったか聞いたことがあるが、だいたい決まって
「みんなの体が丈夫でありますように。ってお願いしてたんやで。」と返ってくる。
他人事なので、ほお、と思って聞いていた。
おばあちゃんは、相変わらず体はずんぐりむっくりしてるけど、一年前と比べると痩せた。
白髪も増えたし、腰も丸まってきている。
身内は殆ど近くに住んでいるので、孫の世話ばかりしているおばあちゃん。
最近は4歳女の子と10歳男の子を入れ替わりで、週6日も預かっているらしい。
「もう、あんたら出入り禁止や!」と笑いながら叫んでいる。
…というのを私は鼻で笑って聞いている。
普通なら、大阪市内で仕事している私は、地元から一歩も出ていない。
身内、ましてやおばあちゃんの家でこんな空間、時間があるとは知らなかった。
コロナの影響で普通じゃない今、気が滅入ってる私はメンタル面でおばあちゃんに甘えまくっていた。
何かあるとおばあちゃんの家に行き、何もなくてもおばあちゃんの家に行っている。
今の私は、先が不透明すぎるのに、決めなければならない事が多すぎる。
したいことがあるのに、まっすぐ進めないもどかしさもありつつ、時間もない。
私は、3日前に爆発した。
ハグして祈って土下座した
おばあちゃんの前でめっちゃ泣いた。
嗚咽が出るほど、只々泣いた。
こんなはずじゃなかった、ごめん。とだけ伝えた。
二人でたわいもない会話をしていただけで、きっかけは特にない。
強いていうなら
「しんどい!疲れた!出入り禁止!」と笑いながら投げ飛ばしてくる姿。
黙々と、周りのことを大切にしながら生きている姿。
“おばあちゃん”という一人の存在を、グッと意識して見たからかもしれない。
私自身の劣等感が顔を出して、情けなくて、毎日何もしていなくて、刺さった。
あ、もう一つ伝えたことがある。
「抱きしめて」と伝えた。
抱きしめてくれた。
そりゃあ孫が、目の前でボロ泣きしてたら当り前にハグしてくれるよな。
と、強がりな私が出てくる。
ここは甘えていい筈なのに、ハグされながら冷静に客観視する自分を冷徹に思う。
それでも、涙は溢れてきた。
見るに堪えなかったのか、その時言われたことは
「おばあちゃんは信仰するものがあるから頑張ってこれた、マリア様の前で手を合わせなさい。」とのこと。
目に見えない信じるものがあるから、頑張ってこれた。と言っていた。
私は早足で畳部屋に行き、記憶の中では初めて、であろう祭壇の前で手を合わせた。
正座をして、目をギュッとつむって、両手を合わせ額につけ
背中を丸めて、何度もお辞儀をした。
最終、絶望して土下座の姿勢になっていた。
頭を畳に擦り付けること数分、スッキリしたのか
これって、どれだけ祈っても、私が行動しなきゃいい方向へ向かないのでは?
と騒ぐだけ騒いで、あまのじゃくなことが脳裏によぎる自分が嫌いである。
世の中生きにくい、と感じた25歳春の出来事。