い草のあおで秘境の地を想いだした話。

文:小倉なおこ

畳表をつくる工程のYouTube LIVE映像を観た。辺り一面にあおあおと茂る井草。それを刈りとり、そしてい草の束をそのまま泥水につける。

「えっ。畳って草と泥でできてるんだ。」

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この映像を見て、私はなぜだか学生時代に訪れたフィリピンの少数民族アエタ族の村での生活を思い出していた。

学生時代にバックパッカーをしていた私は、とりわけガスも水道も電気もないような、秘境の地に行くのが好きだった。そのきっかけともなったのが、山岳民族アエタ族の村での生活だ。

アエタ族の村は首都マニラから車で6時間、そこから水牛に乗って2時間移動した山の中にあった。歴史の教科書に出てきたような高床式住居にホームステイしての生活。電気がないから、夜はもちろん真っ暗闇。空を見上げるとプラネタリウムのような満点の星が広がっている。固い竹の床に寝袋を敷いて眠るのだけれど、周りではカエルやら何だか分からない虫たちが大合唱している。そして朝は5時すぎになると「コケーッ!コゲコッコー」とニワトリ達の声で目が覚めるのだ。

2002年nao.撮影

水は井戸をこいで出す。1人がこいでいる間に、もう1人が顔を洗う。シャンプーもお皿を洗うのも、みんなこの方式。いつの間にか村の子ども達も井戸の周りに集まってきて、水遊びと化すのだった。

初めての東南アジアから帰った日、私は原因不明の高熱に襲われた。40度の高熱が1週間以上続き、意識もうろうとしていたが、目をつぶると、現地での景色が蘇った。あの景色と匂いや音。むわっとした息苦しい感触。子ども達の瞳。色までもが鮮やかに蘇る。目に焼き付いて、離れなくて、身体は熱でうなされる程にしんどいのに、なかなか眠れなかった。

その目に焼き付いて離れなかった「色」が、なんだか井草のあおと重なって見えた。

2002年nao.撮影

「どうしてわざわざそんな所に行くの?」

よく大学の友達に聞かれたのを思い出す。当時の私は、理由を聞かれてもよく分からず「行ったらか分かるよ!とにかく面白いから!」とだけ言っていた。

その後就職してからは、大学の夏休みのような長期休暇はなくなってしまった。そこで私が選んだ旅先は、長野の山奥の村や、瀬戸内海の無人島など国内の秘境?のような場所だった。

その無人島で見た海の情景もまた、私のなかに今も残っている。瀬戸内の無人島だから、日本の海岸線に行けばどこにでも見られる普通の海に違いないのだけれど。無人島という環境で見たからか、私にはなんだか違って見えた。

会社に入って4年目。少しずつだけど色んな事を任されるようになってきていた。「あれしなきゃ」「これしなきゃ」と目の前の仕事に追われていたなか、週末にひょいと訪れた無人島。島には、漁の途中で立ち寄る漁師さん用の簡易トイレがあるだけで、ガスも水道も電気もなかった。

ここではお風呂に入る事もないし、食べ物も火をおこすところから始まる。洗い物だって、キレイな水じゃなくて海水でちゃちゃっと洗うだけ。街ではありえない週末を過ごしていた。

あれは島の周りを泳いで探索していた時のことだ。ちょっとひと休みと、岩場に座ってのんびりと海を眺めていた。

はあぁぁ。

「自分が当たり前に思っている事ってさ。本当に当たり前なの?」別にそこからはみ出しても、ほら。こうして生きられるんだし。

なにもない不自由なこの環境だからこそ、いつもの当たり前から、解き放たれる。「あれしなきゃ」「これしなきゃ」から自由になれるような気がした。

あぁ、私。これを求めていたのかもしれない。

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それにしても、い草のあおあおとした色を見て、どうして突然10年、20年前の記憶を思い出したのだろう。私がそんな話をしていたら、友人からちょうどこんな話を聞いた。

「医学的にハーブを活用する国があるようにね。山の木々とか海の水とか、自然のものが体内に取り込まれると、後々になって同じような成分のものに出会った時に自分の身体が反応するみたいよ。その反応のひつとで、思い出したんじゃない?」

実際に、多くの思い出の品が津波や家屋倒壊によって失われた東日本大震災では、被災者の心のケアとして、音や香りによる思い出想起ケアの取組みも行われたらしい。

へぇ。そうなんだ。自然のものには、そんなチカラがあるんだ。

なんとなく自分の家の中を見回してみる。床は、木目調にプリントされたフローリング。壁はといえば石っぽく見えるタイルが貼られている。

井草の映像を見ただけで、あれだけ脳内トリップしていた私の家は、人工物であふれていた。

あれっ。なんだかなぁ。

子ども達が大人になったとき「はっ!」と思い出すようなモノがうちにはあるのか?そんな目線でモノを選ぶのも、面白いのかもしれない。