文:桂知秋
久しぶりに会う親戚、のような関係
高校時代、人数合わせで茶道部に半ば無理矢理兼部させられた。茶道って、抹茶を点てて飲むんでしょ?ぐらいの知識しかなかったけど、入部してみると何もかも新鮮で、女子高生らしく、まずはお茶菓子のかわいさに惹き付けられ、めんどくさいお作法もこんなもんなんだろうなあと乗り切った。正座もしびれなくなった。抹茶も上手に泡がたつようになってお手前をさせてもらえるようにまでなって面白くなってきたころに、引退。それが私の中での茶道の記憶だ。茶道と私の関係は、ちょっと近づいたようで、余計わからない存在のような。茶道とはそれっきり。
この映画のテーマが茶道だと知った時、久しぶりの親戚に会う、なんとも言えない気分だった。私にはとうてい理解できていないであろう、あの茶道の世界を極める話なんだろうな、と頭をよぎった。でも、そんな想像をこの映画は軽やかに裏切ってくれた。
形をつくれば、心は後から入ってくる
主人公はあの頃の私みたいな、何がしたいかもわからない宙ぶらりんな大学生。茶道でもやってみようかな、くらいのノリで近所の教室に通い始める。新しい世界にワクワクしながらも、意味のわからないことばかりの茶道に戸惑う。なんで?と聞いても「茶道は形から、心は後から」なんて言われてしまう。続けることの意味さえわからなくなってしまう。
わかる、わかる、と心で知ったかぶりのようにうなずく。ここまでは私とだいたい一緒なんだもの。だけど、ここからが違った。茶道を辞めるほど他に何をしたいわけでもなく、なんとか続ける彼女はある日、ふと気がつく。あ、梅雨の時期と秋では雨の音は違う、と。そこから彼女の心の踊るような冒険がはじまるのだ。お湯はトロトロ、水はキラキラ、と聞こえる。頭が形に縛られず、体が勝手に動くようになったとき、要するに、感覚が意識を超えた時、心がどこまでも自由に広がっていく。まるで、そこに宇宙があるかのように。
でも実際は、先生の家のとても小さな茶室の中での出来事。樹木希林演じる先生は、路地裏を入った、古い一軒家に住んでいて、玄関までは普通のおばあちゃんの家。なのに、ふすまを隔てた茶室は、はりつめた空気が見えるような空間だった。たった何枚か畳が敷かれているだけの茶室は、障子を挟んだ小さな庭の季節の移ろいも控えめに映し出す。春にはうっすらと日が差し込み、夏には風が通り抜け、冬には雪がちらつく。そんな自然の図らずとした姿も、彼女の心の広がりも、畳独特の単調な模様が連なる空間が、受け止めているように見えた。余白のある空間、だからこそなのかもしれない。
赤子とひきこもりの日々が教えてくれたこと
そのシーンを観て、私にも思い出した記憶があった。残念ながら、茶道ではないけれど。
それははじめて子供を生んだ時のこと。10年も前だけど、わからないの塊みたいな生き物を前にして、私が格闘していた日々のことだ。さっきまで笑っていたと思ったら次の瞬間には泣く。頭では理解できない事態を、ほっぺたの色、うんちの匂い、お腹の張り、体の温かさ、自分の五感全てひっぱりだして、必死に感じようとしていた。昨日のことを振り返る暇もないほど、いま、いまに集中していた。
端から見れば、ショッピングや酒場通いも諦めた地味で小さい生活だったけれど、瞬間で変わっていく我が子の様子と一緒に、私も瞬間瞬間を生きていたのだと思う。古いアパートの小さい窓から漂ってくるむわっとした風の匂いで春が来るのを感じたり、秋風のひやっとする肌触りにワクワクしていた日々が無性に懐かしくなった。そうなのだ。静謐な茶室も、古いアパートの生活も、不自由で何にもないように見えて、感じる心さえあれば、海外旅行よりぶっ飛べる。そんな感覚を私も知っていたのだ。
なのに、今の私はといえば、隙間さえあればメールをチェックし、パソコンから無限に溢れ出てくるアイテムから買い物をし、五感を使わなくても一日を過ごせてしまっている。気がつかないふりをしていたけど、このままでは何かが腐ってしまう、、、という自分の奥底にある焦りを、この映画に掬いとられた気分だった。ああ、私も感じたい。感じることすら、もう弱っているかもしれないけれど。