文:野崎安澄
「畳」×「小説」と言うキーワードを聞いて、真っ先に思い出すシーンがあった。
高校生の時、初めて読んだ村上春樹の『ノルウェイの森』。1987年発刊ということは、発売から10年くらい経っていたのか。
『風の歌を聴け』三部作シリーズを貪るように読んでから、自然な流れで『ノルウェイの森』にたどり着いた。
物語の年代は1960年代後半。主人公は当時の私と同じく高校生のワタナベくん。そしてワタナベくんの親友キスギと直子。幼馴染であり恋人である2人とワタナベくんは、不思議な均衡を保ちがながら高校生活を送る。
そして、ある日突然親友キスギが自殺をし、恋人の直子が残されてしまう。
高校を卒業し、東京の大学に進んだワタナベくんは、同じように東京に来た直子と、いつしか恋人?になっていく(うむ。関係性の定義が難しいけれど)。
だが、次第に直子は心が壊れていき、京都にある療養所に入ることになった。そして、その療養所の患者であるレイコさんと姉妹のように仲良くなるのだ。
ワタナベくんはその療養所を度々訪れ、3人は心を通わせていく。
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「畳」はいつ出てくるのかって?
もう少しお待ちください。
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しかし、この物語に出てくる女性の運命なのか、直子もやがて、自分の命を断ってしまう。ある日突然、森の中で。
直子と姉妹のように親しかったレイコさんは、直子の自殺をきっかけに療養所を出ることを決め、旅の途中、ワタナベくんの住む三鷹の一軒家(の離れ)にやってくる。
そして「ねぇ、あれは本当に寂しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」と嘆くワタナベくんに、
「直子のお葬式をするのよ。寂しくないやつを」と言って、縁側でギターを弾きながら直子のお葬式をする。
一曲ずつ歌いながら、マッチの棒を置いていく。
『ディア・ハート』から始まり、ビートルズのメドレー、そしてもちろん『ノルウェイの森』を歌い、最後にレイコさんが言うのだ。
「ねぇ、ワタナベくん、私とあれやろうよ」
「不思議ですね。僕も同じこと考えてたんです」
そして二人はセックスをする。
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「ちょっと待ったーーーー!!えええ???」
忘れもしない、初めて読んだ時の衝撃と混乱。
ここで私の頭の中に浮かんでいるビジュアルは、完全に「畳」の上で抱き合うワタナベくんとレイコさんに切り替わっているわけですが(やっと畳にたどりつきましたね)、高校生にとっては、この展開が全くもって理解不能。
共感0なわけです。
大学生のワタナベくんと、恋人の友達だったかなり年上(40代)の女性が、2人だけで直子の葬式していて、なんでそんな展開になるの?
恋愛関係でもないし、ワタナベくんは他に好きな人もいるのに?
(省略していますが、この時直子とは別に”緑”という女性と恋に落ちてます)
自分の中の混乱と同時並行で、「畳」の上で淡々とセックスを進める2人。
物語は進んでいく。
急にハシゴを外されて、落とし穴に落ちたような、「ここではないよ」と現実世界に押し戻されたような、そんな感覚。
数十年経った今でもはっきりと覚えている。
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あの体に刻まれるように残っている衝撃ってなんだったんだろう。
思えば、その時の私は、”愛し合っているものだけがセックスをする”というタテマエをまだ心のどこかで信じていたかったのだ。
少女漫画によくある展開。
告白をし、困難の末にめちゃかっこいい大好きな人と結ばれる・・・。ハッピーエンドで、おしまい。(ノルウェイの森でも、ここまではその展開だったしね)
でも、実際の人間たちのうごめきをじーーーっと見てみれば、そんなタテマエだけが答えでないことなんて、薄々気づいていたと思う。
我が家の両親は私が幼い時に離婚した。
理由の説明は受けたけど、幼すぎて言葉以上の意味はわからなかった。
でも好きで結婚したのに、なんで別れるのか心底謎だった。
小学生の時に、父の友人のおじさんに
「なんで○○さん(奥さん)と結婚したの?」
と聞いたら
「ボランティアだよ」
という答えが返ってきて
「あぁ、世界には”ボランティア”で結婚してくれる組織があって、結婚できなかったら誰かがそこから来てくれるんだ」
と心の底からホッとした。
小学校高学年なって、アメリカのドラマ”ビバリーヒルズ高校白書”を観始めたあたりから、
「おや?私たちが信じているこの”愛し合ってるものだけがセックスをする”って、もしかして本当かい?」
って気づき始めていたと思う。
その最後のパンチが『ノルウェイの森』だったのか・・・。
そもそも、人を愛するとはなんだ。
人を愛するということと、生殖行為であるセックスが、なぜ原因と結果のように結びついているんだ?
愛し合っているものはセックスもするし、愛し合っていないものもする。
愛し合っているけれど、しない人たちだっているだろうし、
そもそも愛さない人だっている。
全部が本当はこの世界にごちゃ混ぜにただ存在している。
そしてそれ自体は善でも悪でもない。
でもなぜかその本質を取りつくろおうとして、あるいは願う世界の一片を切り取って、
私たちは一見美しいタテマエという神話を作り出してきたのかもしれない。
20年後の今読み返してみても、相も変わらずワタナベくんとレイコさんはあの時のまま、黙って畳の上で抱き合っていた。
じゃあ、私は?20年前とどこか変わったのかな?
本当のところを言うと、相変わらずそこには違和感と自分がフィットできないざわざわがあって、タテマエと現実の狭間に空いた穴にまだすっぽり落ちている自分がいた。
何十年たっても、人間って意外と変わらないもんなんだな、と今の私が笑った。