文:野崎 安澄
■本気の“禅寺”
「ゴーン、ゴーン、ゴーン」
朝の5時に鐘が鳴り響く。(おそらくは)起床担当の僧侶が、鐘を鳴らしながら各階の廊下を歩いているのだ。僧侶ではない、ただの宿泊者である私も、その鐘の音とともに目が覚める。そう。『サンフランシスコ禅センター』は、その名前からは想像できないくらい本気の“禅寺”だった。
元々は独身女性の寮として設計された建物。サンフランシスコ特有の坂道に面して、茶色いレンガ造りのファサードがあり、見た目は禅寺というより、教会に近い。息をのむくらい美しい中庭や大きなダイニングルーム、寝泊りする部屋を備えた3階だての建物。一目で恋に落ちた。その一角に、一面に畳が敷かれたホールがある。
僧侶たちが毎日礼拝(らいはい)する場所だ。
仏像、観音様とともに、大きな木魚、鈴(りん)、そして美しい生花が供えられている。毎朝全員で礼拝する前に、1人の僧侶がその部屋に来て、黙々と掃除をし、ろうそくに火を灯し、部屋を整える。
鐘が鳴り、礼拝の時間を告げる。
黒い袈裟を着た様々な人種の僧侶たちが、静かに部屋に入り、畳の上に立ち並ぶ。もちろん日本人は一人もいない。
やがて僧侶ではない、一般の人たち(そしてほぼ全員が黒い服を着ている)も入室。最後に一番高位らしき僧侶が入室し、畳の上に敷かれた座布団に座る。いよいよ礼拝が始まるのだ。
初心者の私には英語で書かれたお経の冊子が渡され、隣にいた女性がさりげなくページを教えてくれた。日本でも礼拝に参加したことがない私は、作法も分からず一瞬戸惑う。
「とりあえずみんなの真似をしておけば大丈夫よ」
と小声で教えてくれた。
「ゴーーン」という鈴の音とともに、全員でお経を唱え始める。日本のお葬式などで聞くお経と違い、抑揚があり、歌みたいだ。
そしてお経を唱えながら、みんな一斉に畳の上にひれ伏し、また立つ。再びお経を唱え、ひれ伏し、立つ。タイミングはお経によって異なるが、30分ほどの礼拝の間中ただひたすらそれの繰り返しだった。
“禅”と聞いて想像していたのと、まったく違う。うっすらと汗をかくくらい続く礼拝の動き。
日本人である私が、禅の何たるかを知らないのがなんだか恥ずかしく、居たたまれない気持ちになった。日本の生活の中で、長い間仏教はその根本を支える願いであったはずなのに、どこで忘れてしまったんだろう。
お経を唱え、畳の上で立ったり座ったり、身体の動きに集中していく中で、自我が消えていく(気がする(笑))。
禅って・・・黙って座禅組んでいるだけじゃなかったんだね。
■「じゃあ、次来るときは修行をしに戻ってきてね」
礼拝のあとしばらくすると、ダイニングでおかゆやナッツなどの朝食がふるまわれる。
朝食が始まるまでは沈黙の時間とされ、誰一人しゃべらなかったのに、ダイニングルームはうってかわって明るい雰囲気に包まれている。
一緒に座った参加者の人たちに話を聞いてみた。
自宅から週に数回、礼拝に通ってきているステイシー。
「禅に興味を持ったきっかけは、日本の京都を訪れたことなのよ。色々な寺院を訪れたわ。そこで仏教に興味を持ち始めたの。今年は桜の季節に行ったんだけど、本当に美しかったわ。日本に行くなら、春がおすすめね!」
9週間禅センターに泊まり、修行をしているジェナ。
「出家を考えているの。その前のお試しで今滞在中なのよ。元々は心理学に興味があって、カリフォルニアのカレッジで学んでいた。そのあとヨガや身体の勉強をし、人の意識についてさらに深めたいと思い探していたとき、禅に出会ったの。日本には行ったことがないけれど、ぜひ行ってみたい。日本で修行をすると、さらに深められると聞いたわ」
そして、修行する人たちの受け入れ担当だというショートカットのチャーミングな女性僧侶には、
「あなた2日間しかいないの?じゃあ、次来るときは修行をしに戻ってきてね」
とウインクされた。
「まさか、そんなこと無理だよね」と心の中で思ったが、この美しい場所にいたいと、心の一部が言っていた。
次サンフランシスコに戻って来るときも、まちがいなくここに泊まるだろう。そしてその時も、人々は変わらず祈りを捧げているに違いない。
都会の中心にありながら、とにかく静かで、凛としていて、日常とは違う時間と空気が流れている場所。
海を渡った畳(と禅)は、国を超え、人種を超えて、たくさんの人たちの祈りを、毎日静かに支えていた。
【サンフランシスコ禅センター】
San Francisco Zen Center:300 Page Street,San Francisco, CA 94102