「栄え水」転じて「酒」となす。古代の名付けの精神性。
科学的な探究が追いつかない目の前の現象、「よくわからない」ことの解釈を人智を超えたものに託すのは、ワールドワイドなひとの智恵なのだろう。お酒そのものも、ひとつの解釈だったらしい。
名付けって、託す・委ねるの精神性の産物だ。祈りなんだな。そう思って聞き入っていると、加藤さんは神社の名前の謂れも教えてくださった。
一見、安直とも思える言霊の深淵さ。大学時代に民俗学の授業で聞きかじった「国ほめ」を思い出した。「山がある、川が流れている、谷が深い、緑が濃い」と目の前の風景を描写することが、そこに写生されたものを祝しているのだと。言祝ぐ行為によってその地の神様を敬い、神様に守ってもらう儀式らしい。
えーーー。謂れなき悪評ではないか。言霊のおそろしさよ。しかし、自らの意志で離婚もままならなかった時代には、「縁切り」もひとつの祈りだったのかもしれない。映画「駆込み女と駆出し男」のように、人生の再出発を願うドラマが、ここでも。もしかしたら。
アースダイブも、「国ほめ」かもしれない。
加藤さんの講義は、ここまでのお酒と生田神社にまつわる話にはじまり、神話、平清盛、明治から昭和にかけて、阪神・淡路大震災(震災翌年にシンディ・ローパーを生田神社に迎えたのも加藤さんだったそう)、神戸まつりと、時空のドライブが止まらない。私たちがこうしてアースダイブできるのは、加藤さんをはじめ、先人たちの記録と紐解きのおかげと感じずにはいられなかった。
昔、法事でこんな説法を聞いたことがある。「仏教の経典のひとつである般若心経の末尾には、『陀羅尼(だらに)』といって、原文のサンスクリット語の音のまま、漢字に翻訳されていない部分があります。陀羅尼は、『悟りを成就できますように』ではなく『悟りを成就した』の意。文法的に、未来形でも現在進行形でもなく、現在完了形で祈っているのです」
「現在完了形で祈る」という古代インドで編み出されたテクニックも、「山がある、川がある」と言祝ぐ「国ほめ」に通ずるように思う。「勝手に灘五郷アースダイバー」と名付けたこの企画、私たちをダイブにいざなうのは、「いまここにある」ことを知り、言祝ぎに参加したいという欲望なのかもしれない。