文:いしづかたかこ
「おいしくなぁれ」毎冬、台所で味噌を仕込む時、そう声をかける。
今年は去年と少し変えて酒粕で蓋をしてみよう、どんな味になるだろう、と目に見えない小さないきものたちの働きを想像すると楽しくて仕方がない。
日本酒造りと聞くと古い木造の蔵に大きな木樽が並ぶのを思い描くが、初めて入った白鶴酒造の酒蔵は、人の手はもういらないとさえ思うほど一面ステンレスのタンクが並んでいた。ここで日本酒を造る人は何を見て、何を思うのか。白鶴酒造で日本酒造りを統括している杜氏・伴さんにお話を伺った。
伴光博さん
白鶴酒造 生産本部技師長(丹波杜氏)
大阪大学醗酵工学科にてバイオテクノロジーの基礎技術を学び、白鶴酒造に入社。造るだけでなく、自身の造った日本酒の魅力を飲み手に直接説明するため、自ら日本酒の広報活動や講演活動も行っている。
生命を利用してつくるということ
白鶴酒造本店三号工場の様子。
そもそも日本酒造りにおけるテクノロジーとは何なのか。伴さんによると「普通のテクノロジーでは人間あるいは人間が作った機械がものを作りますが、バイオテクノロジーは微生物がものを作ります。人間はその微生物に働きかけて間接的にものづくりに関わるのです」とのこと。
「日本酒造りは長い間、経験と勘でやってきました。米と麹と酵母さえあればできるので、ざっくりこういうものを造りましょう、という大枠の範囲内であればそんなに難しくない。でも、非常に狭い範囲で品質管理をし、安定した量を生産しようとすると非常に難しい。生命というのは非常に複雑でまだまだ解明されてない部分が多い……」
家でする味噌づくりは大枠そのもの。おおざっぱでは生業にはならない。
「畜産とか農業も同じで、例えば、牛から牛乳をとる。牛を育てるのはそんなに難しくない。ただ、個体差や健康状態や気候も違うから、毎日同じ品質の牛乳を決まった量とれるように管理するのは至難の業です。生命を利用して何かをつくるのに、目的とするものの品質の許容範囲が広ければそんなに難しくないけど、同じ品質のものをつくろうとするのは難しい。安定させるには、製造過程を工学的に言語や数式で表してテクノロジー化しないといけないのですが、それが非常に難しいんですね」
『醸造ナビゲーションシステム』で「おいしい」が見える!?
「なかなか思い通りにはいかないのがおもしろいんです」と伴さんは少年のように目を輝かせていた。難しい分野に挑めたのは、伴さん自身がバイオテクノロジーや統計、表計算、プログラミングといった得意分野を持っていたから。そうして、自身の杜氏としての経験と勘をシステム化したのが『醸造ナビゲーションシステム』(略して『醸ナビ』)だ。
「テクノロジーの発達によって細かな成分が解明できるようになり、一昔前まで杜氏の経験と勘でしかコントロールできなかった酒の味もテクノロジーでの技術支援が可能になってきました。そこで、より難しい微生物の管理ができるよう『醸ナビ』を自社開発しました。『醸ナビ』を活用して、何と何に関係があるか、あるとしたらどういう関係か。数式で表したら直線なのか曲線なのか二次曲線なのか…を分析して、どういう操作をしたら何がどのくらい変わるかを予測しています」
白鶴の年間の仕込み本数は延べ1,500本。醸ナビでは、それぞれの仕込みタンクにある100項目近いデータを利用して、一つの仕込みについて様々なデータを統計的に解析している。
日本酒を造る上での最終目標は”おいしい”と言われること。テクノロジーがあれば抽象的な”おいしい”をコントロールできるかもしれないという。
「”おいしい日本酒”を造るために2つの科学的なアプローチが必要だと考えています。ひとつは”基準値適合率を高くする”こと、もうひとつは”指標を増やす”ことです。まず、基準値適合率とは、造りたい日本酒のアルコール度数やアミノ酸、甘み・すっぱさ・うまみなどが表される数値がどれだけ目標と合っているかを指す指標のこと。指標と100%一致すれば思い通りに造れたということです。醸ナビを導入したら、約65%が80〜85%まで上がり、全国新酒鑑評会での成績もとても良くなりました」
全国新酒鑑評会とは、全国規模で開催される唯一の清酒鑑評会。新酒を調査研究することにより、製造技術と酒質の現状及び動向を明らかにし、清酒の品質向上に資することを目的としている。(独立行政法人酒類総合研究所より抜粋)金賞をとり続けることは至難とされる全国新酒鑑評会にて、白鶴酒造は令和2、3酒造年度と2年連続で全3蔵が金賞を受賞。
「ところが、好成績を収めたからといって、そのお酒が特別な成分値をもっているわけではなく、わりと標準的な成分値なんです。はたまた、基本的な成分値が同じだからといって、鑑評会でいい成績をとる酒とそうでない酒がある。それらの違いがどこにあるのか、正直よくわかっていません」
仮説を立てて年度初めに「こういう日本酒を造りましょう」と方針を出して、ずれない範囲で各蔵に頑張ってもらう、その年もいい評価を出せれば、一つ理由がわかる……と繰り返しているそう。酒造りの現場にいながら研究者そのもの。
「醸ナビでは、日本酒度、アルコール度、アミノ酸、酸、そして色という5つの基準値をコントロールすることを目標としています。しかし、それ以外にも香りや味など様々な成分がありますが、まだ管理しきれていません。今、5つしか管理できてないものが、7つ、8つ……10個、20個と増えていけば、より求めている日本酒が再現性高く造れるようになると思うんです」
テクノロジーが杜氏の可能性を引き出す
麹の管理は手作業で行われている。
テクノロジー化と聞くとオートマチックな印象。でも実際には、テクノロジー化されているのは”品質設計”と”もろみの管理”くらいだそう。伴さんは「テクノロジーが人の味覚を完全に理解することはないです」と話す。
「どんなにテクノロジーが発展しておいしい酒になる数値を示せるようになっても、経験と勘でしかわからない部分というのはなくならないでしょう。それに杜氏が難しい顔して工夫をこらして造った方がおいしそうじゃないですか」
日本酒造りにおけるテクノロジーはこれまでもあった。けれども、現場とかけ離れていてうまくいっていなかったとのこと。今、伴さんがやろうとしているのは「テクノロジーを現場にフィットさせること」だという。
「醸ナビはあくまでアドバイザーなんです。醸ナビは、多種多様なデータを持っていて、拡張性、普遍性があり、守備範囲が圧倒的に広いので最適な道を出してくれます。でも、自動運転ではありません。例えるなら、醸ナビはカーナビ、杜氏は車の運転手。カーナビは全国どこを目的地に設定してもルートを示してくれます。でも、ときには『カーナビのルートでなく別の道を抜けたほうが通りやすいのにな』ということもありますね。その時は自分の経験と勘で別の道を行くわけです。日本酒造りも同じで『こうしたらどう?』と提案して、最終的には杜氏の経験と勘で判断してもらいます。わかりきってることを間違えないようにしたり、杜氏の知見にない新しい品種の米を使うときや新しい醸造のときに対応できたらいい。そうして、杜氏に余裕が出ることで、もっともっと新しいテーマにチャレンジしていけると思います」