老いゆく父とつくる果実酒


文:川西真由美 画像制作:十倉里佳 

今年は作らない。父が言った。

なんで?

もう全部飲めるかわからんから。

じゃあ私が作る。

父の果実酒を楽しみにしていたわけでもなかったが、毎年当然のように作っていた果実酒を作らないと言われ、父がいなくなる気がして不安になった。

 もうたくさんあるし、ワシは飲めんぞ。

 私が飲むから大丈夫。

両親の酒飲みの遺伝子は引き継いでいる。父は、梅酒は3年以上漬けるとおいしい、と言う。
父は今年で85才。まだまだ自転車に乗って卓球に行くし、近所の立ち飲み屋にも行く。
おばあちゃんは90才で死んだ。そこを寿命と思っているらしい。

 おばあちゃんも作ってた?

 いや、父親が大体作っとった。

 梅酒?

 昔はなんでも作ったんや。戦後はなんもなかったから、梅酒も焼酎も日本酒も家で飲む分は、家で作っとったぞ。

 焼酎も日本酒も家で⁉︎どうやってつくっとったん⁉︎

●父の生い立ち
父は昭和11年生まれ。熊本県天草の農家出身。
9才の時に、海で潮干狩りをしていたら、遠くにキノコ雲が見えたらしい。
長崎の原爆のキノコ雲が、天草からも見えたと言うので、天にも届く大きさだったというのは本当だったんだな、と思った。
その後終戦を迎え、おじいちゃんが戦争から帰ってきて、一緒にいろいろつくっていたらしい。

 日本酒どうやって作ったん?
麹つくったの?麹菌は?夜も暖めたん?発酵何回したん?
私は仕事で日本酒を造っているので、そこはとても気になる。

 地中に埋めたカメでな、米と麹と水を入れてつくるんや。
どぶろくみたいなんができるから、上澄みをすくって飲むんや。
米と麹入れたのは1回だけやと思うな。一次発酵だけやな。

 そんなんおいしい?

 子供やったからわからんわ。
麹菌も麹も売ってるとこあったし、近所でもらったりもしたかなあ。

 じゃあ焼酎はどうやってつくった?蒸留とかどうしてた?

 それも地中に埋めたカメでつくるんや。
蒸した芋と麹菌をカメに入れてな、そしたらカメの中で芋が発酵するやろ、その発酵した芋をもみ殻と混ぜて平たく伸ばすんや。
囲炉裏に水の入った羽釜を上からぶら下げて、平たくした芋を網の上に置いて、下から火で炙ると、アルコールが蒸発して、羽釜の底を伝って、羽釜の下に口のついた受け皿みたいなんがかましてあって、そこをポタポタ垂れてくるのを一升瓶で受けるんや。

ん?よくわからないので図にしてみた。


※日本では1899年(明治32年)から現在に至るまで、自家醸造(個人での酒造り)は法律で全面禁止されています。

 マッチでな、垂れてきた酒に火をつけてな、青い火になったら、蒸留ができてるいうことや。そのうちな、最初は70度位あったアルコールが薄くなってきてな、水が混じり始めるんや。そうなったら終わり。

 薄くなったってどうやってわかるん?

 舐めるんや。あと青い火もつかんくなる。
薄くなったのと濃いのが混じるから、ちょうどいい具合の焼酎になるんや。
そういえば昔、父と姉たちがおならに青い火がつくのか実験すると言って、青い火が一瞬だが本当についたのを思い出した。よくあんな実験したと思う。

 味噌も醤油もカメで造っとったぞ。それを売って百姓の現金収入にするんや。戦後は米を作っても国に出さなあかんから、売る分はなかったんや。現金収入がほとんどないから、なんでも作っとったんやで。

蚕もおった!

 他に何作ったん?

 養蚕もしとったで。
蚕室なんか家にはないから、蚕が大きくなってきたら自分の部屋も蚕にとられて、みんなで隅っこで寝とったんや。春子と夏子言うて、年2回してたわ。箱にワラ敷いてな、そのワラに卵を産みつけるんや。小さいうちは、桑の葉をみじん切りにしてあげて、温度変化に弱いから、部屋の温度も暖かく一定にしてな。大きくなったら、Vの字に編んだわらを並べて、そこに置いていってあげると、そこで繭になるんや。
繭になったら、周りに毛羽があるから、それを毛羽取り機に入れて毛羽をとったら、キレイな繭になるんや。それを繭市場に売りに行ったで。

 家では使わへんの?

 家でも絹糸にして使ったで。はた織り器が2台あったかな。
嫁入り道具とかは作ってたで。はた織も大変でな、おばあちゃんが何日も夜中もぱったんぱったんやってたで。わしもまだ小さい時やったからうろ覚えやけどな。どこの農家もやっとったで。

 大きくなったら作らなくなったん?

 戦後は食べ物がなくて、桑畑が芋畑に変わっていって、蚕も飼えんようになったんや。
戦後はいろんな繊維も入ってきて、そのうち養蚕もはた織もしなくなったな。

戦後は食べていくためになんでもしないといけなかった。母も和歌山の農家出身なので、同じような事を言っていた。お茶碗に米粒を残したらいけないよ、魚は骨がキレイに見えるまで食べるんだよ、と言われた理由がわかった気がする。

炭小屋もあったとは

 炭も作ったぞ。炭小屋があったんや。

 炭小屋?何それ?窯みたいなんで作るんちゃうの?

 いや、山の斜面を利用してな、穴を掘って、2メートル位の高さの土の小屋に煙突をつけるんや。屋根つけてその上に藁しいてな、入り口に戸つけてな、火を調整する小さい入り口も下につくるんや。

 全くわからん。こんな感じ?。

 その中に同じ高さに切った木をきちきちに立てて並べていくんや。
燃えやすい木を上の方に乗せて、上の方から火をつけて、そしたら下の木が炭化していくんや。1週間位したら、炭になるんや。
火の調整が難しくてな、炭焼きも技術がいるんやぞ。

 炭になったかどうやってわかるん?

 煙が白から透明になるんや。
できたら、周りの土に水をかけて小屋を冷やすんや。

 濡れるやん。

 濡れんように、土だけな。冷まさんとあかんのや。昔やからよう覚えてないけどな。

いや、その歳でよく覚えていると思う。75年前の話だし。昨日の話は覚えてないのに。
 できた炭は家で使うん?

 いや、ほとんど売るんや。大事な現金収入になるからな。
炭はよう売れたから、農家はみんな作っとったぞ。
でもそのうち炭も売れんようになってきて、作らんようになったな。

戦後は生活スタイルがどんどん変わっていって、ガスとか電気になっていって炭がいらなくなったのだろうと思う。
そしておじいちゃんは体を壊し、55歳で死んだ。父の部屋に飾ってある写真でしか見た事がない。

やっと果実酒作りへ

  •  梅買ってきたよ。これどうすんの?レモンとキウイも作ってみたい。
     ワシは梅以外うまくいかんかったから、書いてある通りに作ってみ。50年以上作っているわりに、まだ納得いかず、自信がないようだ。
    確かに父の梅酒はすごいおいしい!と言うわけでなく、いつもの梅酒ができればいい、と言う感じで、好きなようにのんびり造っていた。
  • 父の梅酒棚。
  •  梅はヘソをキレイに取るんや。ヘソはな、爪楊枝でこうやって取るんや。あとでヘソが浮いてくるから、キレイにな。

  •  梅を瓶に入れて、上から氷砂糖入れて、酒入れて終わりや。
     簡単やん。

  • あとは「白鶴 手作り果実酒のための日本酒」の裏に書いてあるレシピ通りにしてみました。
    お酒は1.8リットルを3つの瓶に分けて入れました。
    私は日本酒好きなので、漬けるお酒も日本酒です。

  •  レモンの皮を剥くのが面倒やわ。
     わしは梅か、すももしか漬けん。それは近所に梅とすももの木があって、ただで手に入るからだろう。
    父は倹約家で、ただでもらえる物はもらうし、モノを長く大事にする。戦後の苦労もあるのだと思う。
    なんでも手作りするし、飲み屋も立ち飲みしか行かない。私の立ち飲み好きも父の影響だと思う。

レモンとキウイの皮を剥いて、キウイにはレモンを足して、レモン酒だけ皮も入れました。
レモンの皮だけ、2週間ほどしたら引き上げるそうです。
仕込みできあがり。

 砂糖もっと入れんのか?たくさん入れたほうがおいしいぞ。まだ余っとるぞ。
 いらない。私は甘くないほうがいい。

やたら砂糖を勧めてきましたが、今回は書いてある分量で。だから父は糖尿になりかけたんだと思う。

老いゆく父と娘

私は3人姉妹の年の離れた末っ子で、父にかわいがられて育った。姉2人はよく怒られていたが、私は怒られた記憶がほぼない。だからよく姉にずるいと言われたが、私も父も気にせず、父とべったりだった。
しかし遊びに連れていってくれるところが、山で木登りしたり、泳ぎを教える、と海の真ん中に落とされたり、崖をロープで降りたり、今思えば自衛隊の訓練のようだった。それが普通と思っていたが、自分が子供を持って、普通はそうしないことに気がついた。

父は海上自衛隊の通信部にいたので、帰ってきたらモールス信号で「帰ったよー」と家のピンポンを押すので、早く入りなさい!とよく家族に怒られていた。
自衛隊で常に体を鍛えていたので、いつもお風呂上がりに鏡の前で筋肉を見せて、
「どうだ、すごいだろう!」と自慢して、家族に呆れられていた。
いつか日常の中に父がいる風景が、当たり前でなくなる日が来る。
昔のマッチョな面影がなくなり、老いていく父。今まで感じたことがない恐怖感。
毎年作っていた果実酒を一緒に作ることで、その恐怖感を受け入れられるのではないかと思った。

毎年果実酒をつくってきた。

今までその人が日常的にやっていたことを引き継ぐことで、日常は続く。
日常が残る安心感と、日常を繋いでいく責任感ができ、私も子供に教え、そして日常が繋がっていく。
なんでもない日常が続くことが、父やおばあちゃん、そのまた先祖たちの望むことなのかもしれない。
子供たちにも、そのまた子供たちも、自分がいなくなっても、なんでもない日常を大切に続けてほしい。
私にとって、毎年果実酒をつくることがそうだったのかもしれない。
日常は、目に見える幸せなんだと思う。

私もいつか死ぬ。その時、そんな日常が繋がっている事を、幸せに思うのかもしれない。

完成。キウイがうまいと飲む父。私はレモン派。

●材料
・白鶴 手作り果実酒のための日本酒
・梅
・キウイ
・レモン
・果実酒用びん3本
※白鶴酒造HPよりレシピがダウンロードできます
http://www.hakutsuru.co.jp/product/nihonshu/handmade.shtml

※1899年(明治32年)より、日本では 酒税法で自家醸造(個人での酒造り)が禁止されてきました。文中、お父様が幼少期の記憶をたどる場面において、曖昧になりつつある70年以上前の出来事のなかでも酒造りの記憶が比較的鮮明だったことに驚くと同時に、日本酒がそれだけ日常のくらしに深く根付いていたこと、酒造りがこの国の文化そのものなのだと改めて感じる機会になりました。(DEMOくらし編集部)